『PSYCHO-PASS サイコパス 2』 by 塩谷直義
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読んだ/観た日:2020/04/28 - 2020/04/29
☆映画/ドラマ/アニメ総合:3.4
ストーリー:3.5
キャラ:3.5
映像:3.3
音楽:3.4
独創性:3.4
世界観:3.4
深さ:3.8
爽快さ:3.3
おしゃれさ:3.3
他の人におすすめ:3.3
あらすじ/概要
第1期エンディングから1年半後。東京都内で連続爆破事件が起こり、新任執行官の東金朔夜と雛河翔を加えた新体制の一係も捜査にあたるが、人質に見せかけた囮を追跡していた二係の監視官・酒々井水絵が不可解な状況で姿を消してしまい、現場には血で書かれた「WC?」のメッセージが残されていた。確保した犯人・喜汰沢旭の犯罪係数は通常では考えられない経過を辿っており、さらに尋問のための拘置期間中に執行対象外の数値にまで下がるという異例な事態になる。本人は「『カムイ』がクリアにしてくれた」と口走り、移送中に逃亡を謀るが、結局は殺処分されてしまう。喜汰沢の「俺は今、何色なんだろう?」という死に際の言葉から、朱は「WC?」の意味が「What Color?」ではないかと思い至る。その後も『カムイ』を救世主と仰ぐ複数の人物による事件が起こり、さらにその捜査の過程で複数の執行官が殺害されてドミネーターを奪われてしまうという事態が発生するが、犯人たちは一様に犯罪係数が執行対象外のため、現在の日本の法律では裁くことができずにいた。
『カムイ』の正体は、極めて高い医療の知識と技術を兼ね備えた青年・鹿矛囲桐斗であった。彼は小学生の頃に修学旅行で搭乗していた飛行機の墜落事故に遭って重傷を負うが、自分以外の同期生184名の遺体のパーツを継ぎ合わされて生存した、多体移植手術の被験者だった。しかしその結果、シビュラシステムからは生きている人間ではなく「継ぎ合わされた死体」あるいは「複数の人間の集合体」と認識されることになり、サイコパス判定の対象から外され、その結果として社会全体から阻害されてしまうという経歴を持っていた。鹿矛囲は自らをこのような目に陥れた人物とシビュラシステムを裁くために数々の犯罪を計画、実行していたのだった。
鹿矛囲の正体を掴んだ朱と一係は彼の逮捕に向けて動くが、捜査の最中に朱の祖母が何者かに殺害されてしまう。鹿矛囲の仕業に見せかけて行われたその殺人事件の実行犯は東金朔夜であった。彼は「シビュラシステムの一部となった母親を美しく保つ」という歪んだ愛情から、過去に幾人もの監視官の犯罪係数を上げるように仕組み、その度にドミネーターで殺処分してきたという経歴の持ち主だった。さらに、彼の母親である東金美沙子が率いる東金財団こそが、鹿矛囲の多体移植手術を人体実験のために行った張本人であった。鹿矛囲を自ら殺処分するために壬生局長の姿で現れた美沙子であったが、彼女以外のシビュラシステムの総意により潜在犯として認定され、鹿矛囲の持つドミネーターで射殺された。
朱と鹿矛囲の訪問を受けたシビュラシステムは、朱の提案により「個人としてのサイコパスの他に、集団としてのサイコパス判定を導入する」ことを決定する。それによって鹿矛囲はサイコパス判定を受け、潜在犯として認定され、法の裁きの対象となった。あくまでも鹿矛囲を殺さず逮捕しようとする朱だったが、母親の死を受けて錯乱した朔夜がそこに現れ、鹿矛囲とドミネーターを撃ち合い相打ちとなる。その間際に鹿矛囲は、朱の正義がこれからの社会を導いていくと信じ、彼女に未来を託してこの世を去った。
事件解決後、シビュラシステムは朱に対して、「集団サイコパス判定が開始されれば、個人としてはサイコパス判定がクリアであっても、集団としては問題があると判定された人間に対する魔女狩りが横行するだろう」と警告する。だが朱は「社会が人間を選ぶのではなく、人間がこれからの社会を選ぶ」と、人間の可能性に賭ける思いを語るのだった。
目次
正義の天秤〈299/300〉
忍び寄る虚実
悪魔の証明
ヨブの救済
禁じられない遊び
石を擲つ人々
見つからない子供たち
巫女の懐胎<AA>
全能者のパラドクス
魂の基準
WHAT COLOR?
鑑賞中メモ
1は超えられないだろうが、新たな視点を与えて欲しい
最初からシビラの絶対性がゆらぎすぎだな笑
霜月ちゃんはテンプレすぎないかな笑
東金さんは狡噛のリプレースとして十分か?
人間を愛したマキシマと、人間を憎んだカムイ
パノプティコン
サイコパスをクリアにできる。これはちょっときつくないか…
シビラ生誕に関わる物語なのか。
シビラを作った技術で作られたカムイ
裁き:ちょっとそこにマキシマとは違うチープさがあるのかな
東金:黒く染めたい理由は?:なんで美しく保つ=潜在犯に落として処分?
集団としてのサイコパスってなに…?
霜月ちゃんはなぜサイコパスが既定値以内なのか
集合的であるならば、ドミネータを向けるものもまたその一部になる。別の誰かがむければ、あれは違う色になるかもしれない。
感想/考察
基本的には面白い作品だと思う!その上で…やはり1には敵わないという結論。1のラストで朱が人間を舐めないでというシビラへの対決を提示し、今回の2はつまり、シビラを裁く、あるいはシビラを超克するための手がかりを提示する、というテーマ性なのだと思う。が、
集団的サイコパスっていう今回のコアコンセプトがよくわからん。というか定義不足じゃないか…?そこは1ではあえてふせられていた「どうやって個人のサイコパスを測定しているのか」という問題に向き合う必要が出てしまうのでは?そもそも個人とか集団とかどうやって判定しているの?その個人の切れ目は?
もしそうではなくて死体の継ぎ接ぎだから判定出来ない、というのであれば、常守朱との集団的サイコパス云々の攻防がよくわからないことになってしまうし、今回のテーマにそぐわない。
1を超えるコンセプトとして集団を選択したことはわからなくもないが、はやり潜航すればするほどそのコアになにもない気がしてならない。
カムイの動機を見ようとすればするほど、チープな復讐という域を出られない気がする。
なんというかコンセプトではなく、設定が先行している印象がある。1は理想社会とは何かという問いに対して、そして現状完全と考えられる完全でないシステムをどうしたらいいのか、それに対する答えを出した3人を描きたかったというところが伝わってくるが、2はどちらかというと1の設定から外れるものをなんとか探し当て、シビラ出生の秘密にからめて設定を作り、そこにストーリーを載せたという感じを受ける。まあでも、シリーズの2というのがそもそもそういうものなのかな。
いや、違うか、シビラとの対決をコンセプトにしたが、事実上敗北した、ということなのでは?
「集合的であるならば、ドミネータを向けるものもまたその一部になる。別の誰かがむければ、あれは違う色になるかもしれない。」というところにカムイの動機と、作品としてのシビラへの勝機を込めたのだろうが、正直定義がゆるい。シビラが完全であろうとするならば、本来は裁きの対象となる全人類をシステムに組み込まねばならない。そしてそれはできないからこそ、特徴点によってそれを代替している。そしてそれを善の定義としたのだから、善自体を裁いたとしても、善は更新され続けるのであり、破壊には至らない。
そもそも善の定義をしているのがシビラなのだから、シビラにドミネータを向けた瞬間にサイコパスが異常値として計測された意味がわからない。定義の問題なのだから、シビラの脅威判定が上がることはありえないのでは?そうか、ここが一番の矛盾なのか。
集団的サイコパスというのがやはりぼやける。それはサイコパスはどのような計測をしているのかにふれるからであり、そこはぼやかしているからこそこのアニメが成立している。そしてそこにフォーカスしてしまったことによって、最終的にぼやけている。
カムイの場合は、それを一つの個として計測することはできなかったのか。あるいはそれぞれを計測することはできなかったのか。この2つは矛盾している。一つとして計測できないのであればそれぞれを計測すればよく、それぞれを計測できないのであれば一つとして計測すればよいのだ。そしてそのどちらであっても集団的サイコパスなどというものを定義する必要はない。
集団的サイコパスを認めたことによってシビラ自体を判定できる、というのがこの2のキモなのだろうが、
何をしたらサイコパスが上昇するのか。
犯罪傾向=他人を傷つける可能性。旧来の法律における犯罪を犯す傾向。
グロテスクな現場や極限状態を経験した個が犯罪傾向が上昇するのは…わかるようでいて実は曖昧な気がする。
犯罪をどう定義しているのか。犯罪自体を計測しているわけではない以上、つまりは過去に犯罪を犯した脳との類似性を計測しているにすぎないのか。
現実的なことをいうのであれば、結局個が起こす事象とは、内的な傾向と外的な要因によって発生する。が、しかし、シビラは内的な傾向しか計測できないということであり、それも過去の事例との類型化にとどまる。新たな事象を、つまり免罪体質者を取り込むことでそれを解消しているわけだが、
そもそも内的な傾向だけで犯罪を予測することは不可能である。全く同じ人間も、全く違う状況におけば、全く違う行動をするだろう。人間は人間が思っている以上に受動的な存在だ。
そして内的な状態は、個によって相当違っているはずだ。類型化なんて数年で限界が来るだろう。免罪体質者の発生確率は200万分の1なんてものじゃないはずだ。
本来的に完全な測定をしようとすれば、対象者をすべてシビラに取り入れる必要がある。が、しかし、それはできない。そこに本質的な矛盾がある。結局シビラは特徴的なサンプルによって全体を定義しようとしているが、それは結局全体たり得ない。
んー、正直よくわからなくなってきたな…パラドックスを持ち込んだ上でそれを解消できずに矛盾のまま終わっているような印象。そもそも定義が曖昧なシビラに、パラドックスを持ち込むべきではなかった。曖昧なものに曖昧なものをかけて、答えを有耶無耶にして勢いでおしてしまったような気がする。
シビラが人類を判定するという構図から抜け出せない以上、その判定対象にシビラを組み入れたとしても、シビラに勝つことは出来ないのでは?勝つ、というのをどう定義するかだが、勝利はその定義の外側にしかないのでは。だってその定義をシビラがしているんだもの。
批判的な検証をしたものの、アニメとして、そして試みとして面白いのは間違いない!おそらくシビラが善を定義する社会の外ではなく”中で”、シビラを超克する方法を探した結果なんだろうと思う。ただしそこまでシビラに正対してしまったことで、シビラのアニメ的定義の曖昧さ/矛盾に敗れてしまったといったところか…。1ではシビラの定義の厳格さは必要とされなかった。あくまで見つめられていたのは主人公3人の内部だったからだ。そしてそれぞれがそれぞれに答えを貫徹するという現代的な着地点を選んだが故に、現代に生きる私には納得感が高かった。その差なのかな。